くれないのきみ。
好きになった相手がカニだった――それだけだ。
あれは八月の暑い夏の日のこと。
僕はカニを連れて江ノ島へ向かった。
サーファーたちで賑わうビーチを横切り、
鳥居をくぐった先の売店でブルーハワイのかき氷を買う。
「変ね、人工で作られた青の方が綺麗」
海とかき氷と見比べて、カニはどことなく寂しそうに笑った。
石段を登った先、弁天様に手を合わせ、
島の反対側、稚児ヶ淵についた頃にはもう日は沈みかけていた。
磯釣りポイントとしても最適なこの場所は、かつて関東大震災の際に隆起してできたものらしい。
薄暗くなった岩場にちらほらと、家族連れやカップルの姿が見えた。
寄せては返す波の音。
カニは波間に紛れ込ませるようにそっとつぶやいた。
「今までありがとう」

「待てよ……!」
なんとなく、気付いてはいた。
普段外へ出たがらないカニが、突然「海が見たい」と提案したこと。
数日前から感じていた、出逢った頃とは違う、どこかよそよそしい態度。
日常の至る所で、僕は彼女との別れを予感していた。
知っていたんだ。
僕が寝静まったあとあの狭い六畳間の隅っこで、
カニが、
いつも明るく、僕を笑顔で励ましてくれていたあの気丈なカニが、
僕に気付かれないよう、声を殺して泣いていたこと。
「やっぱりまだ気にしてたんだな。その……魚介類だなんて、言われたこと」
そんなの僕は気にしない。
ちゃんと伝えたはずなのに。
「……あたしはカニ。あなたは人」
ゆっくりとこちらを見上げ、カニは僕を諭すように厳しく、はさみを持ち上げる。
「わかってるの?」
それはまるで、あの頃のように――。
何度投稿を繰り返しても落選して、自分なんかもうダメだとやさぐれる僕を叱ってくれたあの頃のように。
今度は優しく語りかけるのだ。
「君にはやるべきことがあるでしょ? ちゃんと〆切を守らないと。あの頃とは違って、君の本を楽しみにしてくれる人たちがきっとどこかにいるんだから」
「〆切なんてどうでもいい。俺はカニさえ面白いと言ってくれたら……。カニさえそばにいてくれたらそれで……!」
「またそういうことを――」
「カニ!」
僕はカニを両手にすくった。
その小さな存在を。
小さくても大切な存在を。
カニ一匹幸せにできないで何がラノベ作家か。
「カニ、結婚しよう!」
沈黙は数秒。
寄せては返す波の音。
夕焼け溶かした藍空の下。
カニはやはり波間に紛れ込ませるようにそっと、返事をくれたのだった。
「……ばか」
それからカニを連れて電車に飛び乗り、

一緒に焼き肉を食べて帰りました。
ということで僕たち、結婚します。嘘です。
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